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ジャン=フランソワ・リオタール「こどもたちに語るポストモダン」

こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)
ジャン=フランソワ リオタール Jean‐Fran〓@7AB7@cois Lyotard

筑摩書房 1998-08
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 本稿は基本的に『ポストモダン通信』における二つの章(「一 「ポストモダンとは何か?」という問いにたいする答え」「二 物語の欄外に記されたことば」)を参照し、そこで示されているリオタールの思想のおおまかな部分を抽出することを狙いとするが、要約と思ってもらって差し支えない。実を言えば、極々個人的な備忘録的なメモランダムでしかないのだから。

1大きな物語の凋落
 近代を特徴づけたものは『メタ物語』であった。それは『大きな物語』とも言われる。簡略化して言えば、人々の行動において正当性が担保され、目標が用意され、意味というもの、主体というかたちが存続していた当のものである。具体的には「理性と自由の漸進的な解放、労働(資本主義における疎外された価値の源泉)の漸進的あるいは破局的な解放、資本主義テクノサイエンスの進歩による人類全体の富裕化、そしてさらにはキリスト教そのものも近代性のなかに数えるなら(つまりそのときそれは古代の古典主義に対立させられているわけだが)、わが身を犠牲にする愛というキリストの物語への魂の回心による、人間の救済」であり、ヘーゲルの哲学は正にそれらの物語の綜合を企図していた。神話は創設という初源的行為のなかに正当性を見いだしているが、これらの『メタ物語』は到来させるべき未来の中に、実現すべき『イデー』の中に正当性を負い、そのことによって物語は『計画』足りえていたのである。それはカントが啓蒙によって目指した、人類の普遍的な物語でもあったわけだが、しかし結局のところその近代の計画、『メタ物語』は破壊され、清算されることになった。主に以下に見るような理想を裏切る影を伴った現実をもってして。

「現実的なもののすべては合理的であり、合理的なもののすべては現実的である」(アウシュビッツ……少なくともこの犯罪は合理的と見ることはできない)
「プロレタリア的なもののすべては共産主義的であり、共産主義的なもののすべてはプロレタリア的である」(ベルリン1953年、ブダペスト1956年、チェコスロヴァキア1968年、ポーランド1980年……労働者が党に反対して立ち上がった)
「民主的なもののすべては、民衆による民衆のためのものであり、その逆もしかり」(1968年5月……日常の社会的問題が代表制度を追い詰めた)
「供給と需要のすべての自由競争は、全般的富裕化にとって好都合なものであり、その逆もしかり」(1911年、1929年の恐慌、そして1974-79年の危機)

2資本主義における芸術
 人類史のあらゆる近代的計画が清算されていくうちに、世界の普遍的な原理として支配者の椅子を獲得したのは資本主義テクノサイエンスであった。それはより多くの自由も、より多くの公的教育も、より多くのより適切に分配された富をももたらしはしない。資本主義はさまざまな事実が、より安全に現状維持されてゆくだろうということしかもたらしはしないのである。そこにおいてリアリズムはお金のリアリズムとなる。時代はもはや弛緩が支配してしまうこととなった。成功以外を認めず、そのくせ何が成功かを示すことはできないこの時代精神において、芸術的・文化的な探求は二度にわたって脅かされている。「文化的ポリティクス」によって、そして「美術および本の市場」によってである。芸術的・文化的探求は絶えず「次のような作品を提供しなさい」と呼びかけられる。「まず受け手である公衆の眼に見えているさまざまな主題に関係のある作品。そして、その公衆が、何が問題となっているのかを認識し、そこで何が意味されているのかを理解し、理由を十分に知りつつそれらにたいして承認をあたえあるいは拒絶することができ、ついにはできることならかれらが受け入れる作品からなんらかのなぐさめをひきだすことさえできるように、そのように作られた<よくできた>作品を」。
 しかし一方でリアリズムですらも満足を与えられなくなり、アヴァンギャルドなものがシニカルな折衷主義によってなあなあなものとして貶められていることを嘆きながら、もう一方でリオタールは資本主義の原理を逆手にとって、アヴァンギャルドの崇高の美学に芸術の潜在性を見て取ってもいる。

3崇高とは何か、そしてアヴァンギャルドへ
 まず認識が存在するのは、まず言表が理解可能なものであり、ついでそれに「対応する具体例」が経験から見出されうるときだ。そして美とは、概念上の決定をなんらもたないままにまず感受性によって与えられた「具体例」(芸術作品)に関して、この作品が引き起こす、どのような利益とも無関係な歓びの感情が、原則的には全員の含意(おそらく決して到達されえないであろうものだが)を呼びかけるものである。したがって着想する能力と、概念に対応する事物(具体例)を提示する能力とのあいだに、偶然に調和したひとつの和解が、美的快感において体験される。ただ、美と崇高は異なったものである。崇高は、美とは反対にたとえ原則上のことでしかなかろうとある概念と一致することになった事物(具体例)を想像力が提示しそこなったときに生じる感情である。例を挙げればわれわれは「世界(いま現に存在するものの総体)」や「単一(分解不可能な者)」の概念を持っているが、その具体的な事物を提示することはできない。そういった概念は可能な提示像をもたないもの(提示できないもの(アンプレザンタブル))なのであるから。カントはその「提示できないもの」のありうべき指標を「無形のもの」「かたちの不在」と名付けた。崇高においてはこういった提示不能性からくる苦痛のなかから快感が生じてくる。その意味をもって崇高とは両義的なのである。
 先程2節の終わりで資本主義の逆手を取ると述懐した。そういったわけは科学的認識と資本主義経済から生まれる価値観のひとつとして「認識と自己拘束(アンガジュマン)についてのパートナー間の合意によって承認されないかぎり、リアリティなんていうものは存在しない」といったものがある。それはリアリティ文学の失墜を意味する。われわれはもはや「リアリティのわずかさ」を発見するのみである。付言すれば、多様なアヴァンギャルドはリアリティを侮辱し、失格させてきた。アヴァンギャルドとリアリティは共約不可能なのであるから。
 モダンの美学は、崇高の、しかしノスタルジックな美学である。その美学は提示しえないものがただ不在の内容としてのみ引き合いに出されることを許すのだが、形式の方は、そのはっきりとわかる一貫性のおかげで、読む人や見る人に、なぐさめや歓びの素材を提供し続ける。しかしアヴァンギャルドの芸術作品は、モダンの内部において提示像そのものの中から「提示しえないもの」を引きだしてくるものである。「着想することはできても、見ることも見せることもできないような何かが存在する」ということを見せるのでなければならない。ゆえにわれわれのなすべきことは「リアリティを提供すること」ではなくして、着想可能であって提示されえないものについての暗示(アリュージョン)を発明することなのである。
 そして一章の最後をアヴァンギャルドの崇高さに賭けるリオタールはこう締めくくる。
「全体性に対する戦争だ、提示しえないものをしめしてやろう、さまざまな争異を活性化しよう、名刺の名誉を救出しよう。」


※ちなみに僕が読んだのは『ポストモダン通信』(1986)だったが、のちに改題され文庫化された『こどもたちに語るポストモダン』の方が、読者の方々が多いように思われるので、そちらをタイトルとした。
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羽田圭介「黒冷水」

黒冷水 (河出文庫)黒冷水 (河出文庫)
羽田 圭介

河出書房新社 2005-11
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ネタバレありのレビューです
羽田圭介は2003年、最年少17歳で文藝賞を受賞した。それが今回取り上げる本作、「黒冷水」である。(ちなみに僕の好きな作家である綿矢りさは2001年に17歳で「インストール」で文藝賞を受賞している。)
ちなみに彼は最近、「スクラップアンドビルド」を芥川賞を受賞したことでもお茶の間のみなさんに知られていることだろう。
僕は今作を前評判でドライブ感・疾走感があると聞いていたのだが、それはそこまでは感じられなかったものの、会話が多く読みやすいことは確かであった。読んで確かに、新潮よりも文藝だと感じた。これには瑞々しさがある。特に弟のあさり行為においての一喜一憂の仕方、拙い元通りの修復の仕方などには中学生ならではの瑞々しい感性が宿っている。
比喩的な意味での飛び道具としての「カッターの刃摑み取りボックス」や固形ヘロインなんてのはどうしてもやはりチープなわけであるけれども、それらは冒頭からバラエティ番組の小堺一機のパロディをぶっ込んでくる流れに合わないこともないという奇妙なバランスを保っている。
しかしとはいえ、終盤の終盤になって急に物語自体がメタ化される憂き目にあってからがまた問題である。これを蛇足と取る人も中にはいるかもしれないが、蛇足は蛇足であってもこれは必要な蛇足である。これによって中盤でもその予感を仄めかしていた事態が一層大きな核の部分となって浮き上がることとなるのである。そこでは兄が弟を狂人とみなし「己が狂人だと自覚させねばならない」と思い込んでいる。これは僕が経験した読書の中で最も新しい手法であった。つまり主人公自らが狂人になろうとする、あるいは狂人になりたいと願う、狂人になる、などの作品はあるが、「他人が狂人でありそれを自覚させねばならない」という、他人を狂人とし、そのことによって間接的に自分が狂人たることを明証するのである。
作品の批評に作者の年齢を持ち込むなど不遜も甚しいことであるのは承知の上で言うと、筆者である彼、羽田が知ってか知らずか分からないが、この構図を17歳で発見したのは驚嘆あるいは、称賛に値する。

滝本竜彦、著書紹介

1 略歴
 小学生の頃から、楽だという理由で小説家に憧れる。高校卒業後、大学入学のため上京するものの、ひきこもりになり大学中退。小説は大学時代から書き始めるが、デビューしなければ後がない状況だったので必死に作品を書き上げる。
 完成した作品を作家エージェント「ボイルドエッグズ」に送って一度断られるが、別の作品『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第5回角川学園特別賞を受賞。その後、長編小説『NHKにようこそ!』やエッセイ『超人計画』を発表。
 『NHKにようこそ!』以来、小説が書けない病気にかかったとして休筆宣言。
 2005年に『僕のエア』『ムーの少年』『ECCO』の三作品が単行本化される予定だったが、どれも刊行されなかった。
 2006年にラジオ番組にて漫画版『NHKにようこそ!』の作業が終了したら上記三作の作業に取り掛かり、一年以内に新刊を出すことを公言した。
 2010年、7年ぶりの新刊として『僕のエア』、2011年の3月に『ムーの少年』が刊行された。(以上、2011年のWikipedia来歴より)

2 作品 works of takimoto
<単行本>
『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(2001年)
『NHKにようこそ!』(2002年)
『超人計画』(2003年)
『僕のエア』(2010年)
『ムーの少年』(2011年)

<単行本未収録作品>
『新世紀レッド手ぬぐいマフラー』(『ファウスト』vol.4に掲載。上京をテーマにした短編)
『誰にも続かない』(『ファウスト』vol.4に掲載された乙一・北本猛邦・佐藤友哉・西尾維新との短編リレー小説)
『非国民は誰だ!?』(『Quick Japan』vol.64~。本田透と共著)
『メタフィジカル・マルチまがい』(『九龍』vol.6に掲載。短編小説)
『メタフィジカル・セルフプレジャー2056』(『野性時代』2007年10月号に掲載。短編小説)
『ECCO』(『ファウスト』vol.2~4に掲載)
『クリアライト』(『ビッグイシュー』第111号に掲載。ショートショート)
『メタトロンの心』(『ノベルアクト』1に掲載。没原稿三篇「聖なる門」「部屋と覚醒と私」「私のメタトロン」の一挙掲載)
『アセンデッド・サガ 序章‐天を照らせ我が空なる心‐』(『中二病でGO!!』に収録)
『アセンデッド・マスターをつかまえて』(『ファウスト』vol.8に掲載)
『おじいちゃんの小説塾』(『最前線』カレンダー小説第四弾として期間限定WEB掲載)
『ライトノベル 光の小説』(『ノベルアクト』3に掲載)

3.単行本作品について。紹介や書評。
それでは、ここからは各単行本作品(計5冊)を順を追って、紹介していきたいと思う。ネタばれには気を配っていないのでその辺は注意してほしい。

①『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』
 まずは滝本竜彦のデビュー作で2001年に刊行された『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』についてだ。この作品は2004年に文庫化され(解説は西尾維新)、漫画化、ラジオドラマも放送され、2008年には市原隼人主演で実写映画(第4回日本映画エンジェル大賞受賞)が放送された。
 実写映画のCMでGreeeenの「BE FREE」を聞いた人も少なくないんじゃないだろうか。映画のキャッチコピーは「誰でも一度は死にたがる……なんとなく」。


ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ (角川文庫)
(2004/06/25)
滝本 竜彦

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――紹介――
 「ごめんなさい。やっぱり私はあいつと戦います」平凡な高校生・山本陽介の前に現れたセーラー服の美少女・雪崎絵理。彼女が戦うのは、チェーンソーを振り回す不死身の男。何のために戦っているのかわからない。が、とにかく奴を倒さなければ世界に希望はない。目的のない青春の日々を“チェーンソー男”との戦いに消費していく陽介と絵理に迫る、別れ、そして最終決戦。次世代文学の旗手・滝本竜彦のデビュー作。(文庫版裏表紙より)


□□□
 まあとにかくこの作品を僕は僕なりに紹介したい。これがライトノベルっぽいだとかセカイ系に含まれるだとか、そんな話もあるけれど今回はそういうのはおいといて純粋に紹介、というよりもこの作品について話そうと思う。
 本作は学園ものだ。主要な登場人物は高校生だ。

□簡単な人物紹介:
◎山本陽介――主人公。実家から離れ学生寮に住んでいる。ある日、絵理ちゃんとチェーンソー男との戦いに偶然出くわす。
◎渡辺――学生寮で隣の部屋に住む同級生。創作好きで軽く躁鬱気味。音楽へ情熱を向ける。陽介と能登と三人でバンドを組みたかった。
◎能登――同級生。バイクで事故って死んだ。神経質で身体も弱かったが、目つきは悪く、他人には分からないようなことを常に睨んで見据えていた。
◎雪崎絵理――学年は一つ下で主人公とは違う高校に通う。突然チェーンソー男が現れ、突然それに戦える力を得ることになり、それ以来戦い続けている。

□□□
 学園が舞台の小説であれば、恋愛とか友情とか部活がどうだとか、そんなことがテーマにされる場合が多い。しかし本作の場合は、確かに恋愛も友情も部活も含められてはいるのだが、本質的なテーマはそこにはない。主人公(以下、陽介)が絵理ちゃんとチェーンソー男との戦いに参加すると決めた場面を軽く抜き出してみる。屋上でタバコを吸いながら昔の学生を想起しながら喋るシーンだ。

――いや、だからさ。戦争したいとかそういう事じゃなくて。オレたちは残念ながら、昔の人みたくバカじゃないからさ。お国のためとか、そういうのが信じられないんだろう。(中略)この世界に本当の悪者なんかいるわけないし、正義もどこにも無いって思うし。宗教なんかにハマってるやつとかも、単なるおバカさんにしか見えないし。……だからさ、アレだ。つまり、なにも信じるものがなくて、不安だ、と――

――信じるものが欲しかった。これだけは絶対に正しいと思えるような、何かが欲しかった。でも、あいにくオレは頭がいい。だからこの世にそんなものは、そうそうないってことを知っている――

――だけどあの少女は戦っていた。どう見ても悪者っぽい怪人と戦っていた。チェーンソー男は、本当の悪者に見えた。そいつと戦っているあの子が、ちょっと羨ましかった――

□□□
 そしてこの章の最後は「悪と戦ってかっこよく死ねるのなら、オレの人生は、それでオールオッケーなのだ」で締めくくられ、陽介は絵理ちゃんに一緒に戦わせてくれるよう頼みにいくこととなる。
 陽介が求めていたのは本当に信じられるものの存在である。中学生や高校生になると多くの人が「なぜ生きているのか」といった人生に対する問いを考え始めるだろう。他人との関わりでしか生きていけないことを知り、人生の意味、自分の価値を手探りで見つけ出そうとするだろう。それはなぜか。自由だからだ。自由で宙ぶらりんだからこそ、縋るものが欲しくなる。手に何かを握り締めていないと安心できないのだ。社会が近づくにつれて自分は自由の中に放り出されることになる。果てしない自由には不安が立ちこめている。どうしたらいいか分からない不安で満ちている。
 そしてそれを考えろ、と言われてもその指標となるべき信じられるものの存在はもうこの世にはないのだ。絶望。だけどどうにかするしかない。これがテーマとなる。
要するに、悩みながらもその不安の中で幸せに繋がる「信じられる」ものを見つけていくのがこの作品のテーマとなっている。友情や恋愛などの成分はそれを彩る要素に過ぎない。

□陽介と能登の対立。
 この物語は一見すれば絵理ちゃんと陽介のアドベンチャーであり、チェーンソー男などという怪物に立ち向かっていくだけのものになってしまう。確かに友情や恋愛成分も含まれてはいるし、そういった見方もできる。だが実際は現実に嫌気がさした主人公が能登を超えていく物語でもある、つまり生きている陽介と死んだ能登との戦いでもあるのだ。

――能登の世界
 能登はこの世界の不条理さを恨んでいた。
世界はどこまでもすっきりしなくて何に向かえばいいか、何が敵なのか分からずぐだぐだと続いていくだけで、幸せもすぐに吹き飛んでしまう永遠の地獄だ。
 その解答として能登はバイクでガードレールに突っ込んだ。それが世界に対する能登が出した答えだった。それによって能登はもう世界に縛られることはない。輪郭のはっきりしない不安にビクビク怯えることもない。死んだらそれはそれで勝ちなのだ。

――陽介の世界
 一方で陽介は不安を抱えながらもダラダラグダグダと日々を送っていた。能登のようにかっこよく死ぬことすらもできないからだ。この未来に対する抽象的な不安を切り裂く方法を探していた。そう、解決があることを知ってはいた。だけどそれが余計に辛かった。
 そんな時、チェーンソー男に出会うことになる。陽介にとってそれは目に見える敵であって真の救いだったのだ。チェーンソー男と戦っている間は幸せだ。絶対的な正義がここにあるからだ。自分に自信を持っていられるからだ。
能登の幻影はそんなことをしても無駄だと陽介を諭す。
「残念だったな、実際お前には、選択権なんて最初から無いんだ」

 生きている陽介と死んだ能登のどちらの方が、最終的に勝って幸せを手に入れたのか。それは読者自身で判断をして欲しい。僕は映画よりは原作推奨派です。


②『NHKにようこそ!』
 次は2002年刊行の『NHKにようこそ!』。2004年(~2007年完結全八巻)に大岩ケンヂにより漫画化、2006年にはアニメ化がなされた。漫画、アニメとも若干原作とは内容が異なる。内容的にはアニメは漫画と原作の中間に位置する。
 これは前作よりも作者自身の引きこもりの実体験を全面に押し出した内容になっている。主人公の佐藤達広は大学を中退した引きこもりで、それを救おうと奮闘する中原岬は宗教家の娘、隣に引っ越してきた高校の時の後輩山崎はアニメオタク、先輩は薬物にハマって抜け出せない。
 ダメ人間小説ここに極まる!


NHKにようこそ! (角川文庫)NHKにようこそ! (角川文庫)
(2005/06/25)
滝本 竜彦

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――紹介――
 俺は気づいてしまった。俺が大学を中退したのも、今話題のひきこもりなのも、すべて悪の組織NHKの仕業だということに!……といってずるずるとひきこもる俺の前に現れた美少女岬ちゃん。「あなたは私のプロジェクトに抜擢されました」ってなにそれ? エロスとバイオレンスとドラッグに汚染された俺たちの未来を救うのは愛か勇気か、それとも友情か? 驚愕のノンストップひきこもりアクション小説ここに誕生!(文庫裏表紙より)

□□□
 こういった物語というのは親を亡くした主人公が裏切りと挫折の果てに世界に絶望するという設定がついて鬱々とした調子になることが多い。が、そこは滝本である。主人公の佐藤くんは全く大した挫折もなくただただやる気がなくて被害妄想がたっぷりで、それで家から出られなくなってしまうのである。でもそこが逆にリアリティがあるわけで、当時社会問題として「ひきこもり」がブームだったこともあって社会的に注目を受けた。さすが、自ら「ひきこもり世代のトップランナー」と称しているだけのことはある。
 
――今、もっともホットな社会現象の「ひきこもり」。それが俺だ。
――今、もっとも大流行な社会現象の「ひきこもり」。それが俺だ。(冒頭より)

 これはずっと家から出られなかった佐藤達広が、様々な人々と出会って、その度にテンションが上昇と下降とを繰り返す物語だ。躁鬱感が活き活きとした調子で紡がれ、描かれている。本作はアニメ化やコミカライズもされており、どの作品も一部に異なったシナリオが採用されている。ファンならどれも欠かさずチェックだ!
 僕は一応、原作>コミック>アニメの序列をつけているが、入りやすいところから入って問題はない。

□簡単なキャラクター紹介
◎佐藤達広(22)――大学中退からのひきこもり生活は4年にもわたる。実家からの仕送りで生きている。山崎とともにエロゲ制作を始める。
すなわちNHKとは、日本ひきこもり協会の略だったのだ!
◎山崎薫(21)――高校時代の佐藤の後輩。重度のエロゲ(美少女ゲーム)オタク。専門学校である夜夜木アニメーション学園に通う。すぐにキレる。
ひきこもりのくせに、でかい口叩かないで下さいよなぁ!
◎中原岬(18)――おばさんの宗教勧誘に付き合わされて佐藤の家を訪れる。その後、佐藤をプロジェクトに抜擢する。
人間だもの、苦しいよ
◎柏瞳――佐藤の高校時代の先輩。薬物依存症。美人。
ところであたしたちの問題は、どこにも悪者がいやしないってことだよね

(以下は漫画版で追加されたキャラクターである)
◎緑川七菜子――山崎と同じアニメーション学校の声優科に通う女子。
未知の恐怖よりは知ってる不安の方が安心できるんだ?
◎城ヶ崎彰――柏瞳の婚約者。外見もよく優秀な精神科医。
ああ僕が悪かったよ!
◎小林恵――佐藤の高校生の同級生で、学級委員長だった。マルチ商法に引っかかる。
でも……関係なかったみたいね。人生に点数なんて……
◎小林四郎――小林恵の兄。佐藤より重いひきこもり。ネットゲームで佐藤と知り合う。
目標って何……?

□□□
 登場人物の誰もが現実にもがいている。佐藤くんは他人からの視線に恐怖を感じるし、山崎は実家の農業を継げと言われるし、岬ちゃんは宗教家のおばさんとの折り合いに悩み、柏先輩は元気になれる薬に溺れている。
 佐藤くんは戦う。何に? 現実に。

   ――前向きに生きていこう? ……バカか!
   ――夢があるから大丈夫? ……夢なんてねえよ!

 これも結局は前作『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』と本質的には同じテーマである。何もかもが馬鹿馬鹿しい現実の中で、目標の無い不安だけが自分を責め立てる。
 漫画の最後で岬ちゃんは言う。


……そう幸せ……
どうすれば私は幸せになれるの?
結婚すれば幸せになれるの? 子供を産めば? 長生きすれば?
それとも何かの業績を残せばいいの?
それともたくさん……気持ちいい欲望を満たせばそれで幸せが満ちるの?

(中略)
恋愛して幸せになってそれで何がどうなるの?
そんなことで何が満たされるの?
(コミックス8巻より)


 何をしても醒めた自分がいる。何をしたら楽しいかが分からない。だけど現実は辛くて悲しい。生きなければならない。死ぬ気もない。自分を騙せば楽なのにそれができない。トレンディードラマで、宗教で、スポーツで、アニメで、自分を夢中にすればいいのに、後ろには醒めた自分がいつでもいて、何をしても無駄だということを知っている。
 前作と比べるならば、より具体性をもった設定や人物描写を盛り込んでおり、リアリティが増したと言えるだろう。ファンタジーではないが、充分なエンターテインメント活劇である。ただ扱う題材はロリコン、エロゲー制作、宗教、自殺オフ会(コミック・アニメ)、マルチ商法(コミック・アニメ)なだけあって人を選ぶ作品かもしれない。けれど、どうしようもない人間というのはそういうものだ。

③『超人計画』
 滝本第三冊目2003年刊行のエッセイ『超人計画』である。最初から――我等は人々に彼等の存在の意義を教へむとす。すなわちそは超人なり。人間といふ暗黒の雲より来る電光なり。――というニーチェ『ツァラトゥストラ』の一節から始まる今作はその名もニーチェの思想を文字った超人計画。NHKのインタビューに出た当時の心境や、精神的要因で書けなくなった状況、そこから復活しようとする意志が脳内彼女レイちゃんとともに綴られていく。巻末にはレイちゃんの知恵袋と称して少しながらオマケが付いている。


超人計画 (角川文庫)超人計画 (角川文庫)
(2006/06)
滝本 竜彦

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――紹介――
 新人作家は悩んでいた。厳しすぎる現実を前に立ちすくみ、ダメ人間ロードを一直線に突っ走る自分はこのままでよいのだろうか。……いや、よくない!! 虚無感とルサンチマンに支配された己を変えるには、そうだ! “超人”になるしかないのだ!! 「くじけてはダメ、ゼッタイ!」やさしく励ます脳内彼女レイと手を取り進め、超人への道!! 「NHKにようこそ!」の滝本竜彦が現実と虚構のはざまに放つ前人未踏の超絶ストーリー!(文庫版裏表紙より)

④『僕のエア』
 2010年に刊行された滝本竜彦単行本第四冊目は別冊文藝春秋で2004年に掲載された『僕のエア』である。
 前作『超人計画』から7年、『NHKにようこそ!』からは8年という長い休筆期間の末に出された作品である。(文庫版には海猫沢めろんが当時の滝本について詳しく述べた解説が付されている。)


僕のエア (文春文庫)僕のエア (文春文庫)
(2012/08/03)
滝本 竜彦

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 主人公は二十四歳の男性。三流大学を卒業した後、やっとのことで就職した消火器セールス会社を半年で退職した後、そして今は二社掛け持ちのマスコミ系ビジネスである、新聞配達と交通量調査で毎日をなんとか食いつないでいる状況だ。そんな主人公の唯一の希望、スミレの結婚式の招待状が届いたころ、あの半透明なエアが現れたのだ。
――紹介――
絶対的な絶望もなく絶対的な希望もないイタくておかしくてせつない青春-120%(単行本帯より)

□□□
 主人公の前に突如現れて命を救った半透明の非科学的存在エアはあれやこれや悪戦苦闘して主人公をいい方向へ向かわせようとする。
 だけど主人公の心は歪みきっていてうまくはいかない。今でも、小学生の時の幼馴染だったスミレへの愛情を忘れられない。その上、苦しいことは全部幻覚妄想だと言い張る。それはまるで筋肉少女帯の『少年、グリグリメガネ拾う』のようではないか。表にあるのは偽りで、真実はいつもその裏側にあるという懐疑論だ。しかし主人公はパラノイアな自分から逃げ出すことがなかなかできない。恋愛だってうまくはいかない。統計学的データをもとに恋愛を形にしてみたところだってそれが違うものだっていうのは分かっている。一緒の部屋で女性と寝ても指一本すら触れられない。
 世界の全ての価値観は自分で決めればいいと思っていながらも、他人からの評価を逐一気にしてしまい、結局すべては無駄だ、何をやってもすべては意味のないこと(幻覚妄想)だ、という袋小路にハマりこんでしまうのである。主人公は叫ぶ。

――いっそのこと、みんなで海をぷかぷか浮かぶミトコンドリアに還ろうよ! 考えてみれば微生物最高じゃねえか! 試験も学校も仕事もねえじゃねえか! いやそもそも微生物以前の、水素とか炭素のままで良かったじゃねえか! 何をわざわざ勝手に進化して苦労を背負いこんでるんだよ! 「なんか面白そうだから俺らどんどん進化しちゃおうぜ!」っていうその考え方が刹那的で無軌道だっていうんだよ! この考え無しの馬鹿野郎!――

 そのため、エアが奮闘する。エアはげんなりと人生諦めきってしまった主人公に、欲望を与えようと脳改造を施そうとするのである。しかし、脳内物質の分泌比率を変えたところで主人公には希望が見えない。そこでエアは最後の方法をとることにする、主人公に大いなる絶望を迎えさせるために、エアが与えるのは、終わりの終わり、彼がなくしてはならない希望の喪失。それであった。それはあたかもツァラトストラが、最後の人間がニヒリズムを脱するために、彼らのニヒリズムを徹底させようとしたかのように。

□□□
 テーマはニヒリズムの超克であるだろう。キャラ立てやストーリー構成は前作や前前作と比べて、つかみどころがないように思われるかもしれないが、その分、今までよりぐっと問題を絞りこんだ感じがする。どうでもいい世界、どうにもならない世界、そしてどうにもならない思い。死の先駆的決意性を超えて(『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』)、対人恐怖症を超えて(『NHKにようこそ!』)、主人公はいままさに虚無を乗り越えようと目の前に見据え始める。世界に対しては最後まで心を開かなかった滝本竜彦の主人公が、わずかに動き始める記念碑的一作。


⑤『ムーの少年』
 最後は2011年3月に刊行された『ムーの少年』。これは2004年に野性時代に掲載された。表紙はデュラララのキャラデザや夜桜四重奏で有名なヤスダスズヒトである。

 雑誌『ムー』を愛読する14歳の男子が主人公だ。学校や家庭に嫌気がさし、ガラス瓶のようなフォボス(FOBS)に話しかけたり、自己暗示をしてしまう少年だ。そして彼が同じ学年の魔法少女弓子さんに恋をして、ともに悪である種蒔き師との戦いの日々が始まる。
 滝本竜彦が贈る、マジカルでリアルな青春小説!


ムーの少年ムーの少年
(2011/03/26)
滝本 竜彦

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――紹介――
虚構の世界の妄想に精神を病んだ彼女を救えるのは、オカルト雑誌『ムー』を愛読し、日々オカルトを実践している僕しかいない! 妄想系美少女と自意識過剰少年の恋と“魔法”の青春物語。滝本竜彦、復活!?(amazonより)

□□□
 恋をした。
 十四歳の初恋だった。
 彼女は夢見がちな人だった。
 魔法使いだったのだ。

 今作はファンタジーだ。魔法が出てくる。チェーンソー男とかエアとかよりもファンタジックでマジカルな作品だ。しかもヒロインは二人出てくる。魔法使いの弓子さんと吸血鬼の慶ちゃんだ。
「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」では、絵里ちゃんを助けることでハッピーエンドを主人公はつかむことになる。それはささやかで、ありきたりの個人としての幸せであった。しかし今度のヒロインは紛れもない魔法使いだ。主人公は幻影を人々に植えつける種蒔き師をサーチアンドデストロイするヒロインに協力することによって、客観的な正義の側に寄っていく。しかし、敵であった種蒔き師こそが真実であったらどうであろうか。それがもし恐ろしくも、疑わしくも、真なる肯定そのものだとしたら? 滝本は本作で、くだらない自意識も合理的な客観性をも超克した宗教性を開示することになる。真なる肯定、ずっと探し求め続けてきた滝本の、それに気づいた瞬間がここには記され、刻みこまれている。
 種蒔き師は弓子さんに殲滅されそうになりながら、主人公に叫びかける。

――嘘をつくのはやめろ。今晩から始まる虚しい日々から目を背けるのはやめろ。これから始まる未来の苦しさを想像しろ。この苦痛に満ちた幻影に取り込まれる義務が本当にあるのか考えろ。ない。義務などないんだ。いますぐ解放される権利が君にはあるんだ。――


4 終わりに。
 僕は滝本竜彦が好きだ。彼の作品が好きだ。
 まだ読んだことのない人には是非一度は彼の作品を手にとって見て欲しい。合わなかったらそれまでだが、合う人もいるに違いない。人生に迷っている人、どうにもこうにもうまくいかない人、なんだか夢や希望が疑わしく思えた人、色んな人に読んで欲しい。きっと共感することだろう。そんな経験は僕だけではないはずだ。
 滝本は映画「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」の原作者インタビューで、こう話している。

――よく映画の宣伝なんかで、「これはまったく新しい青春映画だ」などというキャッチコピーがつけられることが多いと思いますが、ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ、これは本当に、まったく新しい青春映画です。なにが新しいかと申しますと、人類の歴史、数千年ありますが、その中で誰ひとり、このような形式の物語を考えた人はいなかった。そして主題に関しては、相当長い歴史を持つ人類に普遍的なテーマを扱っておりますが、それをこのようなアクション、青春映画として面白いものに仕上げた人間は誰もいない。つまり、この映画を見ることによって、まだ体験したことのない感情を味わうことができます。本当に新しいものを見たい人はぜひ、ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ、日本映画史上に残る今世紀最大の傑作です。――

 これはなんというか、自分でいう人はなかなかいないであろう、自画自賛であるが、僕はまさにこのような畏敬の念を滝本竜彦の小説に対して、伊達や酔狂ではなく、抱いている。
 滝本さんには文章をこれからも書いて欲しい。現在の執筆活動は星海社やファウストで行なわれていることしか分からないが、その活動を決して辞めないでほしい。新しい思いを僕は受け取りたいといつでも思っているのだから。
 さて、こんなところで締めさせてもらおうと思う。まあ、簡単な紹介ではあったけれど、批評精神のまるでないような雑記に似た羅列ではあったけれど、これで一人でも読者が増えてくれればいい。そんな思いを胸にいま私はノートPCをパタンと閉じる。

田中慎弥「共喰い」


共喰い (集英社文庫)共喰い (集英社文庫)
(2013/01/18)
田中 慎弥

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集英社文庫の『共喰い』には「共喰い」、「第三紀層の魚」という二つの小説と、瀬戸内寂聴氏との対談が収録されている。

〈共喰い〉
「父と息子の血縁の相克を描いた」作品と紹介されるのを見るのがままあるが、『切れた鎖』に見られるように、血筋を描くのは田中慎弥にとって珍しいことではない、かといって本作の色が薄いわけでは全くなく、いままでになく設定と展開が迫力をもって描かれている。
 しかし注目すべきは暴力を振るってしまう血縁に絡め取られていく実存が見る、時間の流れにおける歪な立体感だろう。主人公は様々な時間の箱をくぐりぬける。それは成長していく身体における知覚の変容の、無意識な外化といえるだろう。それによって主人公の直接見ている世界が、奥行きをもって読者のまなざしに飛び込んでくる。
 人はその瞬間ごとの肌で感じる時間の流れというものに、出遭おうとするでもなしに出逢わざるを得ない点で、時間に縛られている。主人公は、自らの性欲の実感に、犬の咆哮に、鷺の降り立つ地面に、下水道の整備されていない家々の排水管からそそがれる川の発する淀んだ臭気に、護岸に巣食う船虫によって、形成された時間の壁に飲み込まれる日常を送る。それは成長しゆくほどに濃くなっていく、嗜虐的な父親の血が自分の身体に通っているという忌むべき感覚でもあるだろうし、それに閉じ込められて一生川辺という町から出ることはできないのではないだろうかという思いへの反発でもあるだろう。主人公は家の中を通る虎猫を見て、家の方が虎猫の体の中を通り抜けていった感じがすると思うほどだ。この虎猫の叙述に、田中慎弥の恐るべき知覚能力の特徴が現れている。唯一、確かに時間から逃れている風に描かれている人物は、アパートの角に座っている淫売の女である。彼女は「夢に見たこともない別の人生が通り過ぎゆくのを眺めている」ために、気配や気分といった語に置き換えられるであろう「時間」の枷から解き放たれた者として主人公の目には映るのである。しかしアパートの女は、実際には化粧の厚いただの淫売である。その女に見た架空の自由ではなく、いかに現実的に処理できるか、四囲にへばりつく時間の壁をどう破壊するか、時間の崩壊には何が伴って起こるのか、それがこの小説の主題とも言えるだろう。また、この『共喰い』というタイトルは、田中慎弥作品の中でも稀に見る秀逸さをもって結実していると思われる。

〈第三紀層の魚〉
 主人公は祖母が世話をする九十六歳になる曾祖父の面倒を時折見に行く、小学四年生の男の子である。父は男の子が四歳の時に死に、母と一緒に暮らしている。モチーフは『図書準備室』に見られるような戦争と、田中慎弥の育った関門海峡近くの海での釣りと、大まかには捉えられるだろう。とはいえ、この作品が怒涛のように大きくうねり、物語の底に横たわっている力を、波飛沫として読む者の眼前にきらめかせるのは、話の終盤、主人公がマゴチを釣り上げるシーンであろう。その時、主人公は初めて涙を流す。しかしその涙は主人公にとって、わけのわからないものとして込み上げ、表出するのだ。ここに『犬と鴉』でも取り上げられたような、テーマのひとつである田中慎弥的な「感情のリアリティ」が描かれている。感情の発露は、特定の出来事によってもたらされるものではなく、それは主人公にとっては常に原因を掴み損ねるものとして、現れるのである。多くの要因が積み重なり、混ざり合い、浸透し合い、打ち消し合って、初めて感情というものはわれわれの手の中に新雪のように降り立ってくる。そこにこそリアリティを見るのが、田中慎弥の真骨頂とも言えるだろう。

〈対談〉
 二人の人物が浸透しあって触発されるディアローグというよりは、瀬戸内寂聴への田中慎弥によるインタビューであるように思えた。田中慎弥は自分のことを語るか、相手の持っている情報を聞きだすしかない、要するに打ち解けあってはいないのだ。それは対談としては、取るに足らない平板なものかもしれないが、僕にとっては田中慎弥の特徴をよく表しているように思われた。閉じこもりながら、社会を冷たいまなざしを向ける田中慎弥、それは執筆した文章の中に現れるだけではなく、実際に他者と対する際にも、そういった姿勢は良かれ悪しかれ崩し得ないものなのだろうと、僕には、彼の人物が浮き上がってくるように感じとれたのである。

川端康成 「白い満月」

川端康成「白い満月」

【はじめのはじめ】
 四流色夜空さんから、書評サイトのお誘いをいただきとてもうれしく思います。新しいことを始めるにあたって、この新しい機会に、新しい本とも出会いたいと思い、ふと手に取ったのがこの小説でした。短編小説がきっと内容を紹介しやすいし、みんなの知っているような作家にしようという思い、そんな観点から選びました。(川端康成は、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した作家で、『伊豆の踊子』という小説が主な代表作です。)
 「白い満月」は、読んでいて、素敵なフレーズが沢山出てきて、とても好きな作品となりました。冒頭から、「死んだつていい人間は沢山あると思ひます。」と言い切ってしまうことは、衝撃が走りました。また、自分の親が誰か知れないことを「星の世界のこと」「星の世界の空想」だと表現されているのは、単純に綺麗だとも思ったし、考えさせられるものでもありました。その他にも、ある登場人物の口癖である「一個の存在としての敬意を払う」というのも、言葉の心に残るものでした。「白い満月が黄色く色づきかか」るという描写が何度か出てきますが、その景色を実際に見てみたいとも思いました。
 これより下は少し堅苦しい読解に入りますが、文学を遠いものと思ってほしくないので、どこを読むかは、お任せいたします。次以降も、この【はじめのはじめ】だけを読んでいただけるだけでも、うれしく思います。【はじめのはじめ】では、単純に、描写の紹介を行っていければな、と思っています。
 
 以下より、【はじめに】では、作品の情報の紹介を行い、【あらすじ】はあらすじの紹介、それ以降は、テクストの解釈を行っています。最後の【おわりに】は、あとがきみたいなものです。

【はじめに】
 「白い満月」は1925年(大正14年)12月に雑誌『新小説』(12月号)に発表された。1927年(昭和2年)3月に『伊豆の踊子』に収められ金星堂より刊行され、同年11月『白い満月』としてロッテ出版からも刊行された。
(参考文献:『川端康成全集第二巻』昭和55年10月、新潮社)

【あらすじ】
 「肺病」を患う「私」が「女中」としてお夏を「雇い入れ」るところから、物語は始まる。17歳の女の子であるお夏は冒頭より「私なんかどうなつたつていいんです。」「死んだつていい人間は沢山あると思ひます。」と語り、世を捨てているような一面を見せ、また、他人の黙読している読書のペースに合わせて頁をめくることができるという「不思議」な力の垣間見られる人物として描かれている。そのお夏との暮しに「私」の上の妹である八重子が滞在するようになり、物語は急展開を迎える。
 お夏は遠く離れたところに住む自分の父が筏から落ちる「幻」を見て、倒れてしまう。その「幻」は実際に起きたことであり、お夏の父は亡くなってしまっていた。また、「私」の「下の妹」の静江も「自殺」してしまう。互いに家族を失った「私」とお夏であるが、お夏は、自分が近く死んでしまう「夢」を見、自己の死を確信する。「私」もその姿から、自分も死を「予感」し、「二人の死」に「怯えながら」お夏を抱きしめ、物語は締めくくられる。

 あらすじでは紹介しきれないこともたくさんあるため、以下より物語の説明を加えながら詳しくテクストを見ていきたい。

【「私」と「肺病」】
 そもそも「肺病」とはテクスト内において、うつることが懸念されており、「手紙」を「日光で消毒」するなどの描写があることから、肺結核であると考えられる。この「肺病」の療養のために「私」は、温泉地であり避暑地である田舎に「別荘」を借りて暮らしている。
 自分が過去に「肺病」の知人から「手紙」を受けとっていた際「日光で消毒」するなどしていたため、そのことを考えると誰にも手紙を出せずにいる。「来る手紙」と言えば「毎月末規則的に静江から」送られてくるものだけであった。その「手紙が来る時分にきまつて」、「私」に「貧血の徴候」が現われる。「貧血」を「病気のためではなく孤独のせゐ」だと思っており、「静江の手紙と私の貧血との間に何か因果関係がある」と「不吉な空想」をめぐらせ、これを、「孤独な精神の病気」だと考えている。静江は「手紙」と「金」同時に送ってくれるわけであるが、「月に一度」自分のことを考えてくれることを思うと「不健全な心の動揺を感じる」のだ。この「手紙」を「何か霊妙な水に浸したら、私の頭の中の疑ひのとばりに鎖されてぼんやりしている父母や妹達の姿が、はっきりこの紙の上に現はれさうな気が」している。つまり、静江の「手紙」は「私」にとって、送り主以外の家族のことも意識させられるものであったのだ。そして、そこから「憂鬱と孤独」を感じるのである。しかし、お夏が奉公をはじめてからは「貧血の徴候」は訪れず、「私」の考えの通り「孤独」のために「貧血」は起きていたようであり、「私」もお夏のことを「一個の人間は清らかな空気よりも良薬」であったと感じている。
 以上の描写より、家族を彷彿させる静江からの「手紙」は、「貧血」を起こさせることから、「私」にさみしさを感じさせるものであったのではないかと考えられる。のちにも詳しく述べるが、「私」は、妹達とは異父兄妹であることが描かれており、この複雑な家族関係もその原因のひとつであると考えられる。
 以下の八重子やお夏についての描写の解釈を通し、なぜ「私」の「貧血」が「手紙」によって引き起こされ、お夏が「良薬」として描かれたのか、その意味を読み解いていきたい。

【八重子にとっての家族】
 五月よりお夏を「雇い入れ」たのだが、静江からの「毎月」の「手紙」が七月は届かなかった。それを気にしているところに、「私主君の御使い」として「私」のもとを訪れる。八重子は「私」の上の妹であり、下の妹である静江に「一家の金銭上の権利」が移っているので、八重子はこのようなこのような表現をしたのであるが、これは、日本の戦前の民法に規定されていた家制度による、戸主が次女の静江に移っているということであろう。この一家の両親は亡くなってしまっているため、長男である「私」が戸主を務めることが通常であるが、「肺病」であるために妹に移しているのだと考えられる。財産の管理は戸主の大きな役割の一つであるのだが、「私の金銭上の権利を妹の八重子に譲りたい」という思いを八重子にかつて話していたことと、静江は八重子が「投げ出した財産」を「ちゃんと管理」していたことの描写を合わせて考えると、戸主は「私」から八重子、八重子から静江に移っていったと捉えられる。八重子は、長女であるのだから戸主を務めるのが通常であるし、病気を患っているわけでもないのだから、この財産を投げ出した行為は、非常に自由なものであり、家というものに囚われない人物であることが感じ取れる。戦前の〈家族〉というのは、民法でも厳しく定められており、そのため社会通念としても、今想像する以上に縛りのあるコミュニティであったことは確認しておきたい。そのような〈家族〉であるが、八重子自身、自分の父が知れないこと(母親が戸籍上の父以外と関係を持ち、生まれた子供であると、確かに考えられている)を、「天上の問題」であり「星の世界のこと」と語っていることから、血縁というものに拘っていないことも読み取れよう。

  ダリアの花は幸福だって。叔父さんの家のゐた時分ダリア畑の世話をしてゐましたの。お友だちにダリアの根を上げましたけれどもね、お友だちのダリアに花が咲いても、その花は私のダリアの花の妹だなどと知りもしなければ思うもしないつてね。お友だちにそんなことを書いてやつて泣いてゐましたの。感傷主義時代なのよ。
 
 これは、かつて八重子が「私」に話していたことの引用である。この女学生のときの「感傷主義時代」(センチメンタリズム)を経て、八重子は実の父のことを考えることは「星の世界の空想」であると考えるようになったのだ。そして、「私たち」は、「八重子や静江の父を星の世界へ追放した」のである。そのように、血縁というのを追放し、囚われていない八重子は「一個の存在として敬意を払はれる。」というのを「口癖」にしている。

  「一個の存在に対する敬意」といふ曖昧な言葉に、彼女がどんな内容を含めてゐるのか、はつきりとは私に分らない。しかし、女の虚栄心の単純な満足を意味してゐないことは確である。また、この言葉は彼女の生活の自由は何物かに脅かされた場合には必ず飛出すのであるから、絶対の自由といふ気持が含められてゐることも確である。ところがまた、この自由がどの程度の自由を意味してゐるのかは私に分らない。その自由は、却つて彼女を生活する力のない気まぐれ者にしてゐるに過ぎないと思はれることがあるくらいだ。

 以上の引用から、この言葉のことを「私」は理解しきれていないことがわかる。「絶対の自由」のことであるのだが、それは「女の虚栄心の単純な満足」を意味しないのであるから、単なるフェミニズムではないと考えられる。八重子はこの「口癖」に、表れるように、意識的にも「自由」にこだわっているのであった。
 そして「私」は、「この妹」に「彼女と一つになりたいといふ私の慾望をいつまでも苛立たしく煽立て」られ、「どうも分らない」妹を「人間の力で分る以上に分らうとしてゐるのかもしれない」と感じ、それは「私の父の子であるかどうか分らない」ためであると考えている。そもそも「私」は「父」のことは愛しておらず、「母」を愛しているのであり、「母に似た女性が好き」であると述懐している。妹にも性的魅力を感じているような描写も多くあり、八重子とは違い、結局「私」は家族のつながりに血縁というものを意識して捉え、そこに魅力を感じているのだと考えられる。
 さて、「下の妹」の静江にも触れておきたい。
 静江は、「亭主」と「私立大学の水泳選手」が静江を取り合うために「決闘」が行われ、「亭主」とは「離縁」してしまう。この「決闘」が起き、兄に連絡をする気持ちになれなかった静江は、八重子を兄のもとへ「御使い」に遣ったのである。「決闘」とは、八重子によると、以下のようなものであった。

  ピストルでやつたのよ、海岸で撃ち合つてね、玉があたらなかつたと分ると、それもわざと空に向けて発射したのかもしれないわね、ドンドンて音と同時に、二人が両方から飛んで来て、抱合つて泣いたんですつて。男泣きにおいおい泣きながら肩を組んで帰つたんですつて。

 以上のような見解を聞き、「私」は「狂言」ではないのかと考える。その意見に八重子も同意をするが、「私」はそれを八重子にも「責任」がるように考えている。静江の夫は、「その前に八重子の恋人」であったため、「妹の新しい恋人も、その前に姉の恋人」であると考えているからだ。静江は、八重子を「御使い」に遣っている間に、夫から「復縁を迫」られ、「自殺」をしてしまう。そして、その死を受け、改めて「私」は静江のことを「八重子の付属物に過ぎな」く、「八重子の芥溜(ごみだめ)」であったのだと考えている。

  八重子は彼との恋愛を書き損なつた恋文の反故のやうに紙屑籠へ、妹の静江の上へ投捨ててしまつたのだ。しかもそれを受取つた静江はちやんとした結婚といふ形式でその恋愛を固めてゐる、ちやんとした結婚に行着く、さういふ生活の態度から彼女に自滅の悲劇が生れたのかもしれない。なぜならその反対の八重子の上には美徳の塵も悪徳の塵に降りかかることがないのだ。

 引用のような「狡るさ」は、「八重子自身が微塵も気づいてゐないほどに本能的なもの」らしく、八重子が自分自身に対し「一個の存在としての敬意」を払いながら生きていくためには、「傍に紙屑籠」が「必要」であると「私」は捉えている。

 「私」は妹たちのことを愛しながらも、その仲は、異父兄妹であるために、しこりのあるように感じており、八重子は「一個の存在としての敬意」を払われながら生きていくことを信条にしているため、静江を「自滅の悲劇」に追いやってしまうこととなった。このような家族のありようであったために、家族を彷彿させる静江からの「手紙」は「私」に「憂鬱と孤独」を感じさせ、「貧血」を引き起こさせていたと捉えることができる。

【お夏の「不思議」な力】
 「私」の家に奉公しているお夏であるが、物語内で終始「不思議」な力を持つ人物として描かれている。
 まずお夏は、物語の書き始めから、「眼」は「父から受けたらしい悪い遺伝」を感じさせるものであることが描かれ、「遺伝」という言葉から、血縁というものを意識させられる人物として描かれていることがわかる。他人の黙読のペースに合わせ、頁をめくることができ、それは「私」にも読者にも、不思議な力があるように感じさせる。
 「八重子が来てから三日目の午後」、お夏は父が「筏から」落ちてしまう「幻」を見て、倒れてしまう。それは、八重子の目には「癲癇」のように見えるようなものであった。実際は、お夏は「癲癇」持ちではなく、「幻」を見たせいなのであるが、お夏は父がそれにより死んでしまったと確かに信じる。この話を聞き、「私」も八重子も本当のことだと感じるが、八重子は「気味が悪い」と言う。またそれも、家族に囚われている姿への嫌悪感であるとも読み取れよう。そして、「翌る日の夕方」、「電報」により父の死を現実に知ることとなり、涙を流していた。「葬式」で会った「こんどのお母さん」(お夏の実際の母は他界している)と父の間には「弟が二人」もいることがわかったときには、「こんどのお母さんや弟」と「一生会はない」とは言いながらも「親が同じだからと言つて、変な形につながり合つてゐるのはいいかわるいか分らないからね。」という「私」の言葉には「さうじやないんです。――先生(「私」:引用者注)だつて妹さんが亡くなれば悲しいと思うでせう。」と血のつながりにこだわりを示す返答をしている。
 八重子は血のつながりを「星の世界のこと」だと言っているが、お夏はこだわっており、ここに、家族へのつながりについて二つの考え方が提示されたテクストであると考えることができる。
 お夏は、八重子に「心に不思議な温かさがある」とも捉えられているような人物であり、それは、上記のように人とのつながりにこだわっている人物であるからと読み取ることができる。そのような人物であるからこそ、お夏は「良薬」と描かれ、「私」を「孤独」から抜け出させたのではないだろうか。
 しかし、物語の結末は、「私」とお夏は、二人とも「死」を予期させるようにして締めくくられている。この二人の「死」に、どのような意味を持たせるのかは、また、考えどころであるが、八重子の視点で考えると、したたかさは生きる強さではあるが、一人きりになってしまう、ということとしても考えられよう。

【おわりに】
 テクスト読解、長くなってしまいました。もっと短くしたかったのですが……。今回はなぜ「私」の「貧血」が「憂鬱と孤独」により引き起こされるのか、また、どうしてお夏のおかげでそれがなくなったのか。という問いをテクストに対してたて、それを読み解こうと試みました。その読解のために、「私」の家族のあり方や、お夏の家族のつながりを主に分析し、このようなものとなりました。私自身は、八重子のようにたくましい姿も、お夏のように温かい姿も、どちらも良いな、と思いました。
 他にも、分析したいことのあるテクストでした。「白い満月」の情景描写の分析は、また別の観点から面白い分析ができると期待しますし、今回の私の分析にも繋げられる(あるいは全く違う解釈ができる)ものであるとも考えます。
 情景描写はこの作品において、とくに好きなものであったので、あえて、そこには踏み込まず、多様な読み方のできるものとして残しておくこととしたいです。

【付記】
 『現代日本文学大系52 川端康成 集』(1968年12月5日 筑摩書房)を底本とした。
プロフィール

shirosabi

Author:shirosabi
メンバー
四流色夜空(@yorui_yozora)、安田茜、すず(@_suzu0)、波多野文緒

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