Archive | 2014年10月

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ルイ・アルチュセール「精神分析講義 精神分析と人文諸科学について」

「精神分析講義 精神分析と人文諸科学について」(ルイ・アルチュセール)

精神分析講義――精神分析と人文諸科学について精神分析講義――精神分析と人文諸科学について
(2009/09/25)
ルイ・アルチュセール

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〈導入〉
 ルイ・アルチュセール(1918-1990)という名前は、『逃走論』(浅田彰)なんかで見かけたくらいでその人の思想の概略すらも知らず、なんとなくマルクス関連の人なんだろうな、という雑な印象のみだったために、この本を図書館の棚から選んで読むことにした。
 この本は1963-64年に行なわれた2回分の講義録であり、この時期に行なわれたセミネールの一部である(この前の講義のテーマは「若きマルクスについて」、そして「構造主義の諸期限について」であり、本講義が三つめ、そののち「資本論について」のセミネールへと続く)。のちにアルチュセールの遺稿群として出る「フロイトとラカン」という論文の主要部分は、1964年の初めに執筆されたと言われるが、この二つの講義が丸っきりその草案であるというわけではない。この講義では、「フロイトとラカン」の主要課題ではなく、サブタイトルにもある通り、「精神分析が人文諸科学の領域でどのような位置を占めているか」ということを問題にしている。また、解説を見れば分かる通り、フランスにおける異国の思想の紹介、とりわけアルチュセールが属していたフランス共産党もドイツ圏のフロイトの理論そのものに価値を認めること自体が難しい空気があった。ヘーゲルの思想でさえ、フランスに根付いたのはコジェーヴが1930年代に『精神現象学』についての講義以来のことであった。そういったフランスの知的状況のなかでアルチュセールは(フロイト研究者である精神分析家の)ラカンに独自性を認め、その精神分析を取り上げて、哲学に接続しようとし、広めようとしたのである。そういう意図と内容をもった本だ。実感としては、講義録であるから、静的であるよりは動的、息遣いが伝わってくるような文章が連なり、いわゆる哲学書よりは読みやすく感じた。以下ではその、内容を抽出して大まかなところを紹介しようと思う。

〈内容〉
 講義録は二回分なわけで、第一部「人文諸科学における精神分析の場」第二部「精神分析と心理学」という構成をとっているが、論旨は「精神分析の立ち位置は人文諸科学においてどうあるのか」という問いかけに貫かれている。第一部は主に、精神分析と心理学の関係や、精神分析と生物学との関係を見つつ、精神分析の独自性を探るのだが、上記のフランス内部での時代背景の紹介を踏まえた、専ら第二部の下準備であると言ってもいいだろう。第二部では、より大胆に心理学と精神分析との関係を直接的に探っていく。それはフロイトとラカンの企図したことでもあった、つまり彼らは人文諸科学での精神分析の位置づけ、すなわち精神分析を心理学から遠ざけ、逆にもっと離れたところにあるような諸分野(社会学、人類学など)と近づけようとしたのである。

〈認識論的切断〉
 そこには「認識論的切断」がある。それは、先行する領域の連続性をバックグラウンドにして、そこを出自として連続性を切断し、新たな領域を生み出す、あるいは生み出されることである。すなわち精神分析は心理学から認識論的切断をなして台頭してきた。ここで起こることは、あるバックグラウンドを出自として、その連続性を切断して、新しい概念が出現してきた時に、その新たな概念をバックグラウンドが抹消し、切断を否定してくる傾向である。具体的には、精神分析を心理学の領域は消化吸収しようとする働きが出てくる。精神分析が既存の人文諸科学の中で自らの分野を確立するためには、精神分析が台頭のために切断した領域自体の全面的な再構築が必要ということになる。


〈心理学的主体に先行する象徴的な秩序〉
 心理学を精神分析が革新するひとつの例として、18世紀から19世紀初頭のコンディヤックの観念学(コンディヤックは感覚論を基礎として、そこに言語の重要性を導入した)が引き合いに出される。18世紀には「自然から文化」への移行という問題がフィーチャーされて、その考察の対象のひとつとなったのが、野性児と呼ばれる、森の中で拾われ、動物たちと一緒に暮らし動物のような振る舞いをして、人間らしくない子供たちであった。ここではコンディヤックの観念学に基づいた、イタール医師のアヴェロンの野性児(アヴェロンで見つかった子供ヴィクトール)についての研究が取り上げられる。イタール医師はコンディヤックの観念学に基づいて、ヴィクトールに言語の反応を求め、そこからヴィクトールの野性性から人間存在の要素といったものを取り出そうと苦難する。それは、「欲求によって定義される主体、記号としてのランガージュの媒介、事物と一義的に関係する記号、そして言語を介して確立された二人の主体の間のコミュニケーション、主体と直接に関係する記号の体系」、要するに《主体(欲望)‐記号(言語)‐客体(事物)》というシンプルな構造である。そこで常識とされていた人間観というのは、生物学的なもの(子供、自然的動物的主体)から文化的なもの(人間、心理学的主体)への移行といった図式であった。
 しかし精神分析家という者は、治療をする時の患者のある種の痕跡に相対している。それは生物的な子供が文化的な人間の世界へ組み込まれる際に生じた「痕跡」である。つまり、ここでは18世紀的進化観といったものは否定されていて、「自然から文化への移行」(生物学的存在を心理学化する試み)ということではなく、むしろ事態は「文化的なものが生物的なものに働きかけが行なわれている」ということなのである。ラカンはその自然から文化への生成に先んじるものとして、「象徴的なものの秩序」があるという。象徴的な秩序によって、時間性が生じ、それによって記憶の反復も可能になるのである。

〈呼びかけ〉
 ここではラカンの細かな議論には立ち入らないのだが、この話、つまり「生物から人間への移行」ではなく「文化的なものが生物的なものに働きかける」という構図は、アルチュセールの重要な概念のひとつである「呼びかけ」と呼応する側面がある。アルチュセールの「呼びかけ」とは、教会・学校・家族・マスメディアなどの「イデオロギー的国家装置」によって「個人を主体に転換させる」作用である。これは単純に言葉によっての呼びかけとは限らない。ラカンが「シニフィアン(記号表現・かたち)はシニフィエ(記号内容・考え・対象)よりも優位にある」(かたちが内容を決定する)という考えと通底するのだが、具体的には、解説においてパスカルを媒介項として、祈りと信仰の関係が挙げられている。すなわち「信仰しているから祈るのではなく、祈るから信仰が生まれるのである」といったものだ。ここでは、言葉ではなく祈りという身体技法(儀式)が主体への「呼びかけ」である。アルチュセールは教会や家族が取り決めた、「儀式」によって個人が主体へと転換されるとした。ただ留意すべきなのは、(アルチュセールの用いる)「主体」、あるいは「主体化」というのは、「従属」したものであり、「疎外」のニュアンスを深く含んでいる。このような考えは、精神分析の「文化的なものが生物的なものに働きかける」という構図と合致するものとして考えられる。

〈アメリカ的精神分析、心理学の揺り戻し〉
 認識論的切断に対してはバックグラウンド側である既存の領域への揺り戻しがある、ということは上にも書いたが、それがはっきりとした姿をとって現れているひとつ、精神分析の反対物のひとつに1950年代頃から流行った「アメリカ的精神分析」がある。これはいわゆる「自我心理学」であり、ラカンはそれを「分析家の健康な自我を手本に安定し、統一された自律的な自我を形成することで世俗の幸福を追求するもの」と批判した。すなわちアメリカ的精神分析は、社会環境の適応の精神分析であり、個人と社会の間の調整を専ら目的にしてしまう自我の防衛体系の精神分析である。この精神分析家は言う。「この哀れな坊やにとって、社会は重たすぎる、かれは社会に押しつぶされている、つまりかれの自我はかれの超自我に押しつぶされている。自我が弱すぎるのだから、強化してやることにしよう」。このアメリカ的精神分析の代表として、アンナ・フロイトがいる。彼女の試みは精神分析を心理学における生物学的内実として捉えるものだった。そこではコンディヤックの観念学において想定されるような心理学的主体が「自我」として規定されるのみである。つまり、自我を中心において、生物的内面として「エス」(本能、欲動)が置かれ、社会的規範・倫理が「超自我」として配置されることになるのである。そのためアンナ・フロイトの立場は自我中心的なものとなり、その理論は自我の防衛機制についてのものとなる。しかしこれはラカンが批判していた、抵抗分析の優位を示す立場そのものなのである。というのも、アメリカ的精神分析では、最終的に無意識と意識の関係性を取り逃すことになってしまうことになる。
 ラカンは、精神分析を心理学に還元しようとするやいなや、無意識が意識の中身となってしまうと主張した。それはつまりアメリカ的精神分析のように、主体の中心を自我においた時点で、無意識の領野が心理的主体に従属させられることになるということである。ラカンの精読したフロイトの著作において無意識の自我に対する超越性は本質的なものとして語られていた。

〈全体を通して〉
「認識論的切断」とは、新たな概念を創造の瞬間を指すのだが、その概念の生成はそもそもある違った何かから生まれるものであり、そこには直接関係がなさそうだったり、あるいは「不在」という形で存在している要素が介在しているという、(アルチュセールがバシュラールから借用した)用語である。解説にはアルチュセールの専門用語がいくつか解説されており、その中の「徴候的読解」(哲学的読解・事後性的読解)の説明としては、「この読み方(徴候的読解)は、ひとつの同じ運動によって、それが読むテクスト自体のなかに隠されているものを暴きだし、それを別のテクストに結びつける。この別のテクストは、最初のテクストのなかに必然的不在のかたちで現前しており、しかし徴候の資格で、最初のテクストによってそれ自身には見えないものとして生産された不在の形で現前している」とあるのだが、なんとなくこの「徴候的読解」(事後性的読解)は「認識論的切断」に通底している感じがした。
 訳者解説には、「立ち止まるアルチュセール」とあってアルチュセールにおける精神分析への理解がある程度のところで止まってしまうということが書かれてあったが、「イデオロギー的国家装置」など興味が惹かれるタームが出てきたので、そこなどを重点的に、関心を深めていきたいと思った。また、二つ付された解説ではラカンとアルチュセールの関係が、ある種生々しく描かれており、時代背景を知るのに有用というか、普通にドラマとしておもしろかった。
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四流色夜空(@yorui_yozora)、安田茜、すず(@_suzu0)、波多野文緒

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