Archive | 2016年02月

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ジャン=フランソワ・リオタール「こどもたちに語るポストモダン」

こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)
ジャン=フランソワ リオタール Jean‐Fran〓@7AB7@cois Lyotard

筑摩書房 1998-08
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 本稿は基本的に『ポストモダン通信』における二つの章(「一 「ポストモダンとは何か?」という問いにたいする答え」「二 物語の欄外に記されたことば」)を参照し、そこで示されているリオタールの思想のおおまかな部分を抽出することを狙いとするが、要約と思ってもらって差し支えない。実を言えば、極々個人的な備忘録的なメモランダムでしかないのだから。

1大きな物語の凋落
 近代を特徴づけたものは『メタ物語』であった。それは『大きな物語』とも言われる。簡略化して言えば、人々の行動において正当性が担保され、目標が用意され、意味というもの、主体というかたちが存続していた当のものである。具体的には「理性と自由の漸進的な解放、労働(資本主義における疎外された価値の源泉)の漸進的あるいは破局的な解放、資本主義テクノサイエンスの進歩による人類全体の富裕化、そしてさらにはキリスト教そのものも近代性のなかに数えるなら(つまりそのときそれは古代の古典主義に対立させられているわけだが)、わが身を犠牲にする愛というキリストの物語への魂の回心による、人間の救済」であり、ヘーゲルの哲学は正にそれらの物語の綜合を企図していた。神話は創設という初源的行為のなかに正当性を見いだしているが、これらの『メタ物語』は到来させるべき未来の中に、実現すべき『イデー』の中に正当性を負い、そのことによって物語は『計画』足りえていたのである。それはカントが啓蒙によって目指した、人類の普遍的な物語でもあったわけだが、しかし結局のところその近代の計画、『メタ物語』は破壊され、清算されることになった。主に以下に見るような理想を裏切る影を伴った現実をもってして。

「現実的なもののすべては合理的であり、合理的なもののすべては現実的である」(アウシュビッツ……少なくともこの犯罪は合理的と見ることはできない)
「プロレタリア的なもののすべては共産主義的であり、共産主義的なもののすべてはプロレタリア的である」(ベルリン1953年、ブダペスト1956年、チェコスロヴァキア1968年、ポーランド1980年……労働者が党に反対して立ち上がった)
「民主的なもののすべては、民衆による民衆のためのものであり、その逆もしかり」(1968年5月……日常の社会的問題が代表制度を追い詰めた)
「供給と需要のすべての自由競争は、全般的富裕化にとって好都合なものであり、その逆もしかり」(1911年、1929年の恐慌、そして1974-79年の危機)

2資本主義における芸術
 人類史のあらゆる近代的計画が清算されていくうちに、世界の普遍的な原理として支配者の椅子を獲得したのは資本主義テクノサイエンスであった。それはより多くの自由も、より多くの公的教育も、より多くのより適切に分配された富をももたらしはしない。資本主義はさまざまな事実が、より安全に現状維持されてゆくだろうということしかもたらしはしないのである。そこにおいてリアリズムはお金のリアリズムとなる。時代はもはや弛緩が支配してしまうこととなった。成功以外を認めず、そのくせ何が成功かを示すことはできないこの時代精神において、芸術的・文化的な探求は二度にわたって脅かされている。「文化的ポリティクス」によって、そして「美術および本の市場」によってである。芸術的・文化的探求は絶えず「次のような作品を提供しなさい」と呼びかけられる。「まず受け手である公衆の眼に見えているさまざまな主題に関係のある作品。そして、その公衆が、何が問題となっているのかを認識し、そこで何が意味されているのかを理解し、理由を十分に知りつつそれらにたいして承認をあたえあるいは拒絶することができ、ついにはできることならかれらが受け入れる作品からなんらかのなぐさめをひきだすことさえできるように、そのように作られた<よくできた>作品を」。
 しかし一方でリアリズムですらも満足を与えられなくなり、アヴァンギャルドなものがシニカルな折衷主義によってなあなあなものとして貶められていることを嘆きながら、もう一方でリオタールは資本主義の原理を逆手にとって、アヴァンギャルドの崇高の美学に芸術の潜在性を見て取ってもいる。

3崇高とは何か、そしてアヴァンギャルドへ
 まず認識が存在するのは、まず言表が理解可能なものであり、ついでそれに「対応する具体例」が経験から見出されうるときだ。そして美とは、概念上の決定をなんらもたないままにまず感受性によって与えられた「具体例」(芸術作品)に関して、この作品が引き起こす、どのような利益とも無関係な歓びの感情が、原則的には全員の含意(おそらく決して到達されえないであろうものだが)を呼びかけるものである。したがって着想する能力と、概念に対応する事物(具体例)を提示する能力とのあいだに、偶然に調和したひとつの和解が、美的快感において体験される。ただ、美と崇高は異なったものである。崇高は、美とは反対にたとえ原則上のことでしかなかろうとある概念と一致することになった事物(具体例)を想像力が提示しそこなったときに生じる感情である。例を挙げればわれわれは「世界(いま現に存在するものの総体)」や「単一(分解不可能な者)」の概念を持っているが、その具体的な事物を提示することはできない。そういった概念は可能な提示像をもたないもの(提示できないもの(アンプレザンタブル))なのであるから。カントはその「提示できないもの」のありうべき指標を「無形のもの」「かたちの不在」と名付けた。崇高においてはこういった提示不能性からくる苦痛のなかから快感が生じてくる。その意味をもって崇高とは両義的なのである。
 先程2節の終わりで資本主義の逆手を取ると述懐した。そういったわけは科学的認識と資本主義経済から生まれる価値観のひとつとして「認識と自己拘束(アンガジュマン)についてのパートナー間の合意によって承認されないかぎり、リアリティなんていうものは存在しない」といったものがある。それはリアリティ文学の失墜を意味する。われわれはもはや「リアリティのわずかさ」を発見するのみである。付言すれば、多様なアヴァンギャルドはリアリティを侮辱し、失格させてきた。アヴァンギャルドとリアリティは共約不可能なのであるから。
 モダンの美学は、崇高の、しかしノスタルジックな美学である。その美学は提示しえないものがただ不在の内容としてのみ引き合いに出されることを許すのだが、形式の方は、そのはっきりとわかる一貫性のおかげで、読む人や見る人に、なぐさめや歓びの素材を提供し続ける。しかしアヴァンギャルドの芸術作品は、モダンの内部において提示像そのものの中から「提示しえないもの」を引きだしてくるものである。「着想することはできても、見ることも見せることもできないような何かが存在する」ということを見せるのでなければならない。ゆえにわれわれのなすべきことは「リアリティを提供すること」ではなくして、着想可能であって提示されえないものについての暗示(アリュージョン)を発明することなのである。
 そして一章の最後をアヴァンギャルドの崇高さに賭けるリオタールはこう締めくくる。
「全体性に対する戦争だ、提示しえないものをしめしてやろう、さまざまな争異を活性化しよう、名刺の名誉を救出しよう。」


※ちなみに僕が読んだのは『ポストモダン通信』(1986)だったが、のちに改題され文庫化された『こどもたちに語るポストモダン』の方が、読者の方々が多いように思われるので、そちらをタイトルとした。
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羽田圭介「黒冷水」

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羽田 圭介

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ネタバレありのレビューです
羽田圭介は2003年、最年少17歳で文藝賞を受賞した。それが今回取り上げる本作、「黒冷水」である。(ちなみに僕の好きな作家である綿矢りさは2001年に17歳で「インストール」で文藝賞を受賞している。)
ちなみに彼は最近、「スクラップアンドビルド」を芥川賞を受賞したことでもお茶の間のみなさんに知られていることだろう。
僕は今作を前評判でドライブ感・疾走感があると聞いていたのだが、それはそこまでは感じられなかったものの、会話が多く読みやすいことは確かであった。読んで確かに、新潮よりも文藝だと感じた。これには瑞々しさがある。特に弟のあさり行為においての一喜一憂の仕方、拙い元通りの修復の仕方などには中学生ならではの瑞々しい感性が宿っている。
比喩的な意味での飛び道具としての「カッターの刃摑み取りボックス」や固形ヘロインなんてのはどうしてもやはりチープなわけであるけれども、それらは冒頭からバラエティ番組の小堺一機のパロディをぶっ込んでくる流れに合わないこともないという奇妙なバランスを保っている。
しかしとはいえ、終盤の終盤になって急に物語自体がメタ化される憂き目にあってからがまた問題である。これを蛇足と取る人も中にはいるかもしれないが、蛇足は蛇足であってもこれは必要な蛇足である。これによって中盤でもその予感を仄めかしていた事態が一層大きな核の部分となって浮き上がることとなるのである。そこでは兄が弟を狂人とみなし「己が狂人だと自覚させねばならない」と思い込んでいる。これは僕が経験した読書の中で最も新しい手法であった。つまり主人公自らが狂人になろうとする、あるいは狂人になりたいと願う、狂人になる、などの作品はあるが、「他人が狂人でありそれを自覚させねばならない」という、他人を狂人とし、そのことによって間接的に自分が狂人たることを明証するのである。
作品の批評に作者の年齢を持ち込むなど不遜も甚しいことであるのは承知の上で言うと、筆者である彼、羽田が知ってか知らずか分からないが、この構図を17歳で発見したのは驚嘆あるいは、称賛に値する。
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shirosabi

Author:shirosabi
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四流色夜空(@yorui_yozora)、安田茜、すず(@_suzu0)、波多野文緒

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